「真田三代(下)」(火坂雅志) 真田日本一の兵(ひのもといちのつわもの)、幸村の凄さとは何か。

 

真田三代 下 (文春文庫)

真田三代 下 (文春文庫)

 

 

主を次々と替え、卑怯者として名高い真田昌幸(まさゆき)は秀吉に従った上杉に次男の幸村を人質に送った。上杉の傘下に入ったからである。そこで幸村は上杉景勝の名参謀、直江兼続の屋敷に入ることになったのが、彼との出会いが幸村の思想に十分過ぎるほどの影響を与えた。

 

上杉は義を重んじる家風で知られる。義とは何か、という疑問もあるのだが、端的に言ってしまえば、昌幸のような裏切りや、戦国時代に横行していた理不尽な言動もせず、筋を通すということになるのだろうか。

 

だからこそ、真田家の教えと真逆の価値観を持つ兼続に、幸村は驚き、感銘を受けた。そして、自身の義、とは何か、ということを以後、追求していくことになる。それは大阪冬の陣と夏の陣で体現されることになるのだが、それについては後述する。

 

さて、幸村の凄さとはどこにあるのだろうか。父、昌幸からは「才は私より上」と言わしめるほどだ。昌幸は小勢力ながらも二度も徳川軍を上田合戦で破り、その名を日本中に知らしめた。その昌幸が認めるほどなのであるから、相当な才能の持ち主であることが分かるだろう。

 

しかしながら、父のような全国区の知名度が全くなかったため、いくら優れた策を持っていようと、大阪冬の陣や夏の陣では豊臣幹部に聞く耳を持たれなかったのが残念でならない。関ヶ原の戦い後、敗戦の将となった昌幸と幸村は家康から高野山に送られてしまい、そこで昌幸は命を落とすことになるのだが、幸村はその昌幸から徳川撃破の秘伝の策を仕込まれた。が、既述の通り、大阪の陣でその策の主張は通ることはなかった。

 

大阪の冬の陣ではNHK大河ドラマのタイトルにもなっている「真田丸」の出丸を築き、神懸かり的な戦いを披露してくれている。あと一歩で家康の首、という大仕事を成し遂げそうにもなった。

幸村には昌幸ほどの政治力、処世術はないかもしれない。しかしながら、戦場においては真田日本一の兵そのものであった。そして、負け戦と分かっていても徳川を討ち果たす、という自身が信じる義を貫き通した男でもあった。